やまむーめも

日々の生活と好きのふりかえり

やまむー的、サディスティックについてのおはなし

しこちゅ~よりもみきゃんの方が1000000倍は可愛いと思うやまむーです。四国中央市だけでなく四国のほかの市町村にも目を向けてあげてください。

 

さて本題です。今回は私が好きなキャラとかそういった話をするにあたって避けては通れないであろう話題でございます。

 

私は一部からマゾヒストと見做されています。艦これの霞について言及したのがそのように見做されたことの始まりです。別にそのように扱われること自体は構わないのですがこれについてなかなか理解が難しいところですので、サディスティックなキャラ(サディスティックとは言っていない)にまつわることについて一度書き記しておく次第です。

まあこんなこと言ったわけですが、私自身自分が何故こういうものが好きなのかはわからないところもありますので、現時点での自分の考えとして書いていきます。

 

まずは基本的な前提のおはなしをしましょう。サディスティックなモノ(まあ要するに行為ですね)には大きく分けて物理的なモノ(ex.殴る、蹴る)と精神的なモノ(ex.罵倒)があると言って良いでしょう。そしてこのように分けたとき私が好みとしているものは後者であるということ、これが一つの大きなポイントとなります。

 

それでは次に何故このようなモノが好きなのかというおはなしです。おそらく根底にあるのは一種の自虐的思考があるのではないかと考えています。即ち、自らの無力さ、無能さなどを受け入れてくれる・肯定してくれる、そういう存在としてサディスティックなキャラというモノが位置づけられているわけです。自分を卑下することに対して他の人がとる行動には、無力・無能であるということを突きつけてくるか、フォローをしてくるか、主にそのふたつが考えられます(無関心、など上述したもの以外のパターンは無視します)。一見すると、フォローしてくれる方が良いのかもしれません。しかし、無力・無能であるという事実を突きつける、そのことを肯定してくれる、そのことに一種の喜び・興奮を感じる、そのようなこともあると考えます。

以上のように考えると自分を受け入れてくれる存在としては私の好むサディスティックの方向性と最近のオタクの言う「ママ」(私はこれはあまり好きではないのですが)は本質的に似通った部分があるのかもしれません(謎理論)。

まあこれだけなら分かりやすいのですが、私のクソっぷりによりこれが複雑化します。肉体的な痛みはただの苦痛でしかないと説明すれば、物理的なモノは好みでないことの説明がつきます。しかし、先程好みと述べた精神的なモノと言っても度を過ぎれば、自らの精神が壊れる結果になりうる、そうも考えています。要するにほどほどにしてほしい、みたいなところがあるわけです。面倒くさいですね。

しかし、これに対しても一つの考えがあります。玩具の扱い方として考えてみましょう。つまり、玩具を壊れるような扱い方をするか、大切な扱いをするか、という問題です。ここでの玩具はサディスティックなキャラにとっての私、やまむーであるということは言うまでもないことです。サディスティックと大切に扱うというのは相反するものではないと思っています。

以上、何故サディスティックなモノが好きなのか、そこにある自分の考えです。

 

最後にどのようなものが好きなのか、それについてのおはなしです。具体的に書き連ねるというよりかは要素を提示するといった感じですが。

精神的なモノと述べたことから言葉は重要なこととなってきます。また、立場(これを決める要素は年齢などがあります)が下の子からのモノというのがあります。立場逆転かと言われると難しいところですが。あとはなんでしょう、愛というところでしょうか。先程、「自分を受け入れてくれる存在」、「大切に扱ってくれる存在」ということを述べましたがそのことです。このことについては、一見してみれば歪んでいるように見える愛、それを好んでいるといえるかもしれません。

 

以上長文ですが、私なりの今時点での考えです。クッソ読みにくいですね。反省はしてます。

あくまでも今回述べたことはキャラについてこういったことを考えているといった感じのおはなしです。ヤバそうなオタクですね、はい。

今回述べたことが好きなキャラとどう関わってくるかはいずれおはなしするかもしれません。今日のところは以上です。

 

さて、次回ですが、今のところ決まってないです。何かのネタが飛んでくればそれについて書くかもです。一つ考えているのは好きなキャラとどう関わるのか具体的なおはなしをすることです。まああまり期待せずにお待ち下さい。ではまた。